根津に住む、みすみしょうこさんによるコラム「この町のリート」が始まります。
リートとはドイツ語で歌曲のこと。この町の奏でる生活の歌をお楽しみください。
猫のような町
この町を知ったのは、雑誌『クウネル』と小川糸さんの小説『喋々喃々』だった。どちらも生活を丁寧に切り取るような、そんな優しい文章で、行間に町の雰囲気が匂い立っていた。
それは遠い記憶の中にある「懐かしい」町。
口は悪いが優しいおじさん。忙しないほど世話好きなおばさん。
商売に誇りを持つ店の主人たち。都心であるにも関わらず「昭和」が置き去りにされたような雰囲気の町。
その匂いが、区を跨いで存在する、谷中、根津、千駄木エリア。人呼んで谷根千である。
生まれ育った町ではもう失われつつあった人情ってやつが、ここにはまだ残っている。余所者でもわかるくらいに、建物の外側にまで生活と人情が溢れ出ている。通りまで飛び出して置かれている鉢植えや、住人たちと近隣の人の会話がそれを物語っている。一方、それでいてオシャレで個性的なお店もある。日常と非日常が心地よく混在している、そんな期待があった。
しかし、期待に胸躍らせて、古いフィルムカメラだけをもってこの町に降り立った時、私は面食らってしまった。
根津の駅前には、何もなかったのである。
いや、本当はあるのだ。町で一番大きなスーパーがあり、商店もあり、人もいる。
でも、駅前の風景の第一印象は「だから何だろう?」だった。
そこでようやく、私は、目には映らない何か特別な「空気」をフィルムにおさめたいと思ってここにきたのだ、ということを自覚した。
よくよく考えたら今まで私は、パッケージングされた「観光地・商業地」にしか出かけたことがなかった。たいていどの場所も行けば、人気店がわかりやすくまとまった商業施設があったり、よく目にするチェーン店があったりした。たとえ知らない町に行ったとしても、そういった軸足にする拠点みたいな勝手知ったるところを見つけて、そこを起点に知らない何かを見つけ出していくという、行動パターンが染み付いていた。
ところがここでは、町についた瞬間から全てが手探りだった。どっちに行ったら何があるのか、ガイドブックなどでしっかり予習をしたわけでもない私は、自分の嗅覚だけを頼りになんとなく歩き出した。とりあえずの目的地は上野公園。そこまでの道中をぶらぶらと寄り道を続けて町の雰囲気を楽しむことにしたのだった。
初めての根津は、まるで猫のようだった。突然現れた闖入者を警戒し、ゴロゴロと喉を鳴らしながらその柔らかなお腹を触らせるどころか、冷たく姿を隠してしまった。
この町を本気で楽しむには、きっと何遍も足を運び、町に対して誠実な私を表明し続けなければならないのではないか。そんな予感を残し、この町を後にした。
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